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ふと薬草をすり潰す集中力が途切れ、窓の外を見た。

3階から見える景色は、日に日に青の深さを増す空が見渡せホッとする。
下を覗くと伸びやかに揺れる葉桜と、ツツジの濃厚なピンクが見て取れた。

もう春から初夏へと季節は駆け抜けて行く。

あぁ、私 渇望しているんだな。

サクラは胸の中で独りごちる。
名前の付けられない感情を持て余す事に疲れ、桃色の唇からため息がこぼれ落ちた。

 

「JEM」

 

大量の止血剤を作り上げ、黄昏れの光の速度がすっかり緩やかになった5月の木の葉を歩く。
程よく湿度を含んだ風は柔らかく、サクラの髪を揺らすそれに自分の纏う薬剤の匂いを吹き消し かわりに芽吹く命の香りがして立ち止まった。

いい季節だな、としみじみ思う。


18になり、前面で任務をこなすことよりも 医療の新薬開発チームに所属することが圧倒的に多くなった。
もともと、薬草に関する知識も深かったので、やり甲斐は存分に感じていたが、その代わり人と接する機会がぐっと減ってしまい
下手すると一日中誰とも言葉を交わすことなく終わってしまう日もあり、たまにこうして心が荒(すさ)んでしまう。

それがまさに今日だった。

体を動かすことが好きだ。
人とコミュニケーションを取るのが好きだ。"ここに私はいる"と自己の輪郭をなぞる事ができるから。

でも、自分が置かれてる仕事に誇りもある。

こうして感情に理屈を並べて自分を慰める時は 寂しい証拠だ。
あぁ、サスケくんに逢いたい。

自分の年令が変わっても、生活や仕事が変わっても、サスケに対する恋心は何の変化も起きない。

完璧としか言いようのない、端正な容姿を見れば 変わらず心臓は跳ね、胸が締め付けられ、喉が乾く。
低くて少し尖った声は、サクラの心を容易に貫く。サスケに恋をした頃と何も変わらない、その反射、反応。

どんなに時間を重ねても傷むことを知らない瑞々しい果実のような感情。
自分を持て余し、振り回し 我儘な幼子のそれだとしかいいようのない、この感情が恨めしい。

だいたいパターンが定着していて、分かっている。
飢えに近い気持ちを抱いている時ほど相手にはされなくて、ふと思い出したかのように連絡が来る。
お互い、忙しい身の上なのだ。


いい子にしてなくちゃ。
困らせたり我儘を言ったらいけない。
きっと疲れているだろうから、呼ばれないのに会いに行ったらいけない。

自分勝手なルールで自分の手首と足首と心を縛る。


我ながら窮屈な恋愛をしていると思う。それでも、サスケがサクラに触れる珠玉の時間は何事にも代えがたいものだった。
代償が自己の欲求との戦いなら、容易(たやす)いとさえ思う。


サクラは噛みしめるように想う。サスケくんが好きだ。


鼻の奥がツンとして、思わずスン、と鼻をすすった。
顔に触れた指が薬臭く、あげく薬草のアクで黄色く変色している。

酷い色。

明日も1日中薬草をすり潰し、また指を染めるのだ。
そう思うとなんとなく滑稽だった。
暮れなずんでいた西の空が時を刻みはじめ、朱に染まっている。

サクラは夕日に向かって両手を伸ばす。西の山へ沈む太陽を止めるかのように両手をかざす。
私のこの両手は一体何の為にあるのだろう。
自分で自分の事が分からない。確かな物を掴んでいる、と思っていても もう一方で、大事な何かを確実に取りこぼしている。

「…きったない手」

どうしようもなくて、そう呟くと 伸ばしていた片手を横から掴まれた。

「何やってんだ…」
少々「呆れ」を感じさせるその聞き覚えのある声に、サクラの全身の血液がゾワゾワと泡だった。

朱の光がその特徴的な黒髪に当たって反射し、光で輪郭を浮き上がらせている。

「サスケくん…」

唐突に現れた彼に、呆然と言葉を送ることしかできない。その圧倒的な存在感にたじろいでしまう。

こんなに綺麗な人を創った神様をサクラは少しだけ恨んだ。

 

***

 


久しぶりに遭った恋人同士は、どんな反応を示すのが常識なのだろう?恋人同士…果たしてサスケとサクラの関係をそう敬称して良いのかすらも疑問だった。
そんな事をグルグル考えながら、サクラは隣で歩くサスケと歩を合わせていた。

呆然と驚きを隠さないサクラを見て、サスケはどう思ったのだろう。


ポツリポツリとお互いの近況を報告しあってから、すっかり会話が途切れてしまい、サクラはなんとも言えない居心地の悪さを感じていた。
思えば13歳の頃は、サスケの傍に居れることがただただ嬉しくて、それを素直に態度に全面に押し出せていた。
振り返れば恥ずかしさで居た堪れなくなるが、今よりもずっとサスケの前で自由で素直だったな、と思う。

あの頃の自分には少なからず可愛げがあった。

サスケと居ると、自分を見失ってしまう。
どうやって人と話をし、どうやってそれを会話につなげていたのか?
思ったこと、考えたことをどのように伝えていたのか?

全て分からなくなってしまう。アイデンティティの喪失を起こす。

こんな不安定な自分といて、サスケはどう思っているのだろう。明らかに面白くはないだろうな、という確信がサクラの気持ちをますます暗くさせた。

「ナルトは元気?」
「最近会ってない」
「…そう」

唯一二人の接点であるナルトの名を出すことは、卑怯だと思ったが もう仕方がなかった。

「…あいつ、ちゃんとご飯食べてるのかな」
独り言の様に呟けば、真っ直ぐ横を向いていたサスケの眼差しがゆっくりサクラへと向けられた。

「野菜も言わないと食べないし、相変わらずラーメンばっかり食べているかもしれないじゃない?」
「…」
「塩分だって多いし、栄養が偏っちゃうとやっぱり体にかかる負担も増えるでしょ」
「…」
「忍は体が資本なのに、分かってるんだか分かってないんだ「だったらてめーがナルトの所に行けよ」


サクラの言葉が言い終える前に、サスケの言葉が重なった。
苛立ちを隠さない、鋭い声色に思わずサスケを見る。

それは未だかつて自分に向けられたことのないサスケからの感情だった。


サスケくん怒ってる…?


サクラの言葉でサスケの心を揺さぶられる事などないと思っていた。

…私は何を話した?
サスケくんは何に怒っているの?


歩幅を大きくし、サクラの前を歩き出すサスケの背が向けているのは 明らかに拒絶だった。
怒りをあらわにするサスケに、鼓動が内側からサクラの体を打ち続ける。
普段足音を立てないサスケが、ザリザリと音を立てて砂利を踏みつけている。

 

「サスケくん?」


「ねぇ…」


「ねぇってば!」


「何でそんなに怒ってるの?」

その言葉を聞いて、サスケは音もなく振り向いた。


「…お前は、オレのなんなんだ!?」
朱色から発光した藍へと変化する西の空が、サスケの眼の色の黒をますます濃くする。

サクラは驚きで、目を見開いた。

「答えろ」
絞りだすようなサスケの声に、サクラは小さく首を振る。

 

 

…分からない。

 

 


キスをしたり、抱きしめあったりしても、サスケから「好きだ」と言われたことはない。
諾々とサスケの手管に流されて、一方的に好意を押し付け、一方的に答えを避け続けた。


都合が良くて構わない。
安っぽいと罵られても構わない。


好きで、好きでおかしくなりそうだったから、束の間の夢を見させてもらっただけだ。
限りある愛でもいい。
否、根底に愛などなくてもいい。

サスケの指先が触れて、チリチリ舞い踊る心と体の浮遊は、麻薬のようだった。
それに深く溺れただけだ。

サスケとの関係性を尋ねられたのだから、率直に答えるしかなかった。
己から口にすることで、再認識しろという事なのだろう。


曖昧に逃げた自分への罰。


「第7班の仲間、だよね」
ニコリと笑って見せた。我ながら上手く笑えたと思った。

「それがお前の答えなのか?」
「…ん」
「分かった。じゃあな」

そう言うと、サスケは再びサクラに背を向けた。
先ほどとは比べ物にならないほど早い速度で、サスケの背が小さくなる。
それを黙って見送ることしかできなかった。


は…、と唇から吐息が零れ落ちた。太い木に背を任せると脱力して座り込む。
緊張と、喪失と、やるせない想い。

胸の奥がじゅわんと熱くてたまらない。熱いのに、それは涙となって流れては来なかった。


触れて、揺れて、肉体はひとつになったとしても、心が重なることはなかったのだと思い知る。
縋り付いて纏わりついて、サスケからの懺悔が欲しくてそれを散々利用したのだ。

初めから分かっていたことだ。

体がすうすうする。今までサスケが触れた場所がただ冷たい。

好きだ、と言えていたあの頃にはもう戻れない。
告白は、もう別の意味を持つようになってしまった。サクラが気持ちを伝えたらサスケはそれに応えてしまう。
償う為にサクラと契る。サスケ自身の心は捨てて。

 

だからもう伝えなかった。

 


バカなふりをして、利用してるつもりで夢の片鱗を啜った。しかし、それはあまりにも甘美な夢だった。
愛はないと思い込みたくても、今だけはとサスケの腕に堕ちていった。


こんなに好きなのに…好きなのに…!


奥歯を噛み締めて、高ぶる感情を抑えこむ。


浅はかな関係がそう長く続くとも思わなかった。
それでも、気づかないふりをして曖昧な関係を続けていきたかった。
サスケからの拒否を、サクラは受諾する。
それがサスケの自由への一歩だ。祈ることしかもうできない。


手の届かない幻が、うっかり手のひらに舞い降りてきたような そんな奇跡だ。運が良かった、と言って自分を慰めて行けば
いつか時が自分を治癒するだろう。

笑おう。


そう思っていくら口角をあげようとしても、
あげようとしても いつの間にか流れだした涙はとめどなくサクラの頬を熱く流れ落ちた。

好きだって言えば何かが変わったのだろうか。
好きだって言えばサスケを留められたのだろうか。


…結局 サスケの前で泣けなかった。それが全ての答えだ。

手の甲で涙を拭い、ノロノロと立ち上がると体についた砂埃をはたく。
明日になれば、また決められた事を決められたようにこなしていく。それが続く。永久に、この命が燃え尽きるまで。


そんな日々の中に光を落とした、それがサスケだった。

 

ひくりと喉が震える。
こらえていた嗚咽が漏れる。
いけない、いけないと思いながらも心はどんどんサスケを求め、駆け引きめいた逢瀬の中にある、わずかな愛情を敏感に感じ取っていた。
違う、サスケはサクラと向きあおうと思っていてくれていた。それに気がつきながらも、サクラはサスケを遠ざけようとしていた。

"私"がサスケくんを想うから、"サスケくん"は私を愛そうとするんでしょ?
私はサスケくんからの想いが欲しくて堪らないのに…。


何度も喉元を焼いた言葉は消して声にならず。伝えることもできず。

もっと信じれば良かったのかな。

 

 

―――でも。

 

口元に当てた手が、吐き出される後悔の吐息で熱い。
涙で視界は水の底のようにぼやけている。


苦しい。
あぁ、こんな風に泣いたのは何時ぶりだろう?
自分の感情で理性が押し流されるこの感覚を、なんと呼べばいいんだろう?


ザリザリと砂を踏む足音が聞こえる。それが徐々に自分に近づいてくる事を知り、音から逃げるように背を向けた。

「何泣いてんだよ」

泣いてなんかいないと伝えるように、サスケに背を向けたまま頭を振る。

「サクラ」
「…違」
「何が違う?」
「…」
「お前の泣く理由はなんだ?」
「…」
「言え。言わないと写輪眼で無理やりにでも聞き出す」

そう言うとサスケはサクラの肩を掴んで振り向かせた。指を顎の下に差し入れられ、上を向かされる。
驚いてサスケの目を見ると、少し怒りで歪んだサスケの瞳がじわりと赤く染まっていく。

本気だ。
サクラは固唾を飲み込んだ。声が震える。

「…私はサスケくんなんかもう好きじゃない」
「…は?」
「だから、もう私に罪悪感なんか感じなくていい」
「…」
「サスケくんの好きな人を、大切にしてあげて」

そこまで言い切ってサクラはサスケから目を逸らした。必死だな、と思う。サスケを遠ざけることに必死なのだ、と。


「…上等じゃねーか」
サスケに耳元でそう囁かれ、体がビクリと揺れる。

「お前がオレを好きだろうが そうじゃなかろうがオレには関係のない事だ」

あぁ…、とサクラは思う。
初めからサスケの心は此処になかったと。
言葉が胸の奥を深々とえぐり、ひどく悲しくて、また新しい涙がこぼれ落ちる。サスケの言葉を噛みしめるように瞳を閉じた。

サスケを遠ざけようとするくせに、サスケの言葉に勝手に傷つく。どうしてこんなに自分はどうしようもない。

すると、サクラの閉じた瞼から零れ落ちた涙の雫を、サスケは舌先でペロリと舐め上げた。
その所作にサクラは体を固く竦ませる。そんなぎこちないサクラの体に、サスケは抱き寄せるように腕を回してきた。

言葉とはうらはらに、まるで幼い子どもに言い聞かすように、サスケはサクラの額に自分のそれを重ね合わせる。

「オレはお前を掻っ攫っていく。ただそれだけだ」
「…ダメだよ」
「何が」
「サスケくんは…!」

「お前がそうしろって言ったんだろうが」

「だって」
「つべこべ五月蝿い」

まだ何かを言いかけるサクラの唇に、サスケは小さく口づけを落とした。触れた唇から心に電流が流れたかのようにビリビリする。
緊張と、目眩と恍惚が入り混じる。

「…逃がさないって言ってる。オレの勝手だろ」

サスケの言葉を聞いて、サクラは自分の心がどんどん溶解していくのを感じ、全身の力を抜いてサスケに体を預けた。
「…きじゃないって言ってるのに」
強がりばかりが空回って言葉になる。言葉と心が咬み合わない。

それがすっかりサスケに筒抜けなのを感じる。
…私はサスケくんにこんなにも甘えきっている。

それを許してくれるのなら…狡い算段を企む自分が恨めしい。


本当かな…、本当にサスケくんは…私の事を


そこまで考えた時、思考を封じ込めるかのようにサスケが動き出した。
安々と流されてしまう自分をどこか恨めしく思いながら、もう少しこの宝玉に溺れていたいとサクラは目を閉じた。

 

END

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